4月19日は「地図の日」伊能忠敬が最初の一歩!

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実測による日本地図を作成するため、伊能忠敬(いのうただたか)が蝦夷地へ出発した日に由来して、4月19日は「地図の日」とされ、地図を完成させるまでに21年もの年月を要したことから「最初の一歩の日」とも呼ばれています。

歴史の教科書にも登場している伊能忠敬ですが、

どのような経緯で蝦夷地へ向かうことになったのでしょうか?

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1745年に神保家の末子として千葉県九十九里町で生まれた伊能忠敬(幼名:神保三治郎)は、18歳のとき同県香取市佐原村で酒や醤油の醸造のほか、貸金業なども営んでいた伊能家の婿養子となりました。

婿入り当初、家業は縮小し危機的な状況にありましたが、忠敬の才覚により再興し隠居時にはかなりの財を築いていたそうです。

また、1783年の「天明の大飢饉」では、私財をなげうって貧民救済に取り組むなど村政にも手腕を発揮し、その功績により地頭から苗字・帯刀も許されていました。

50歳を迎えた忠敬は周囲に惜しまれつつも隠居し、以前から興味があった暦学を勉強するため江戸へ出ます。

幕府天文方の高橋至時(よしとき)に師事し、自宅に天文台をつくるなど熱心に天体観測や測量の勉強に励んだそうです。

この当時の学者の関心ごとは、地球の大きさや、経度・緯度を知ることにありましたが、それには江戸から蝦夷地ぐらいまでの距離を測量する必要があり、また、国土の測量や蝦夷地へ渡航するためには、幕府の許可を受けなければいけませんでした。

ロシアをはじめとする外国の圧力が強まり、国防上精密な地図を求めていた幕府の動きを察知した師の至時は、蝦夷地の正確な地図をつくることを幕府に願い出て、その役割を55歳になった忠敬に任せます。

1800年4月14日に幕府から蝦夷測量の命が正式に下り、その5日後に忠敬一向は蝦夷地への最初の一歩を踏み出したそうです。

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